全国に残る八百比丘尼の足跡をまとめています

富山県下新川郡入善町に残る八百比丘尼の物語

富山県に残る八百比丘尼比丘尼の話は、黒部川の河口付近に集中している。

旅の工程で、大きな街道・海路を使ったからではないかと思われる。

この地区の伝承の特徴として「お虎」という女中が挙げられる。お虎はそれ相応に歳をとっていく。ただ、ものすごく長生きではあるが。

決して若いままというわけではないところが、他の伝承と異なっているように思う。

それでは、特に伝承が集中している下新川郡を中心に、彼女の足跡を紹介する。

入善町園家に残る伝承

時代とともに場所が移り変わってきた、現在の富山県下新川郡入善町の善称寺
善称寺

その昔、まだ園家千軒に善称寺があった頃、寺の裏にある池の底には竜宮城があると信じられていた。

寺で報恩講(浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の御命日(11月28日)にちなんで、仏様や先達に感謝し、念仏の教えに遇えたご恩に報いる法要)があったときお椀がたりなくなり、龍神様にお椀を貸してくださるよう、お願いしたのだという。

すると翌日、池には立派なお椀が浮いていたという。

それから報恩講がある度にお願いをしていたところ、ある時、お椀の中に刺身が一切れ入っていた。

寺の奥様は、女中の「お虎」に、これを決して食べないように言ったため、余計に食べたくなってしまい、こっそりと食べてしまった。

実はこれは不老不死の霊薬「人魚の肉」だったのだ。

そして何百年も生きたある時、大津波の襲来を予言した。

村人は「そんなことあるものか」と冷笑したが、津波はやってきて園家千軒は全滅し、お虎だけが生き残った。

その後彼女は流浪の旅に出て、若狭国のある村に留まり「生き神様」と崇められた。

それから何年もして、園家のあたり(高瀬地区?)からこの村に旅人がやってきた。

旅人は「越中新川郡からきたお虎明神様」の噂を聞いて尋ねてきた。

お虎婆さん(この頃にはすっかり年老いていたらしい)は大喜びし、霞んだ目を輝かせながら、故郷の話をあれこれ聞いていたという。

お虎の子孫である家は「上清どん」といい、現在の山滝家・大川原家であると言われている。

現在の園家はこの辺りであるが、そのすぐ隣に高瀬地区がある。

園家は湊としてかなり賑わっており「たくさんの家がある」ため、園家千軒と呼ばれていたのだろう。


「上清どん」には、少し異なる形で伝承が残る。

それは、お寺の女中お虎が人魚の肉をたべた頃は、相当な年寄りとなっていたというもの。

やがて大津波があり、お虎婆さんだけが生き残り、黒部川を川原柳につかまって渡り、流浪の末に若狭国に渡ったという。

のちに高瀬の「石本茂(あるいはその祖先)」という人が尋ねてきた。

お虎婆さんは大変喜び「食事は串柿2つづつくれればそれでよい」「椿の木が枯れたら、私が死んだと思って欲しい」と語ったという。


また神子沢地区には「お虎の通った道」があるという。

詳細な地図や位置情報は公的資料や地図サイトでは確認できない。

入善町の公式資料によると、神子沢地区内に「お虎の通った道」が存在するとされており、地域の伝承や史跡として知られているため、入善町役場などに問い合わせるとよい。

場所が移り変わった「善称寺」

富山県中新川郡上市町の善称寺とは別のお寺です。

この地区の伝承では「善称寺」が中心となっているように思われる。

善称寺は永享元年(1429年)に創建されたと伝えられている。

当初は園家千軒にあったが、洪水(大津波?)の被害を受け、入善町下飯野新にあった寺屋敷地区へ移り、その後現在の東狐に移った。

地図で確認すると、徐々に内陸に移動しているのがよくわかる。

この辺りが、昔はかなり水害の多い地域だったのだろう。本当に大津波がやってきて、それを予知した人がいたのかもしれない。

参考資料として、昭和36年7月10日発行の「広報 にゅうぜん」を参照させていただきました。

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